県名と県庁所在地名とが違うところがあります。
四国を例にとると、徳島県は徳島市、高知県は高知市と、県名と県庁所在地名が同じなのに対し、愛媛県は松山市、香川県は高松市と違っています。
なぜが?以前から気になっていて、調べてみたら明治維新の際の「官軍vs賊軍」の構図が色濃く反映されていることがわかりました。
県名と県庁所在地名が違うのは17
各県の県庁所在地を暗記することは、中学受験の社会科では必須ですよね。私の娘には、「県名と県庁所在地名が違うところは17。まず、これだけを覚えれば、あとは同じところ」と教えていました。
一方で、「県名と県庁所在地名が違うのはなぜ?」と尋ねられたら、答えられないなとも思いながらも、「まず17個を暗記せよ」と言っていました。
ちなみに、その17とは、北海道、岩手県、群馬県、栃木県、茨城県、神奈川県、山梨県、愛知県、石川県、三重県、滋賀県、兵庫県、島根県、香川県、愛媛県、沖縄県です。
廃藩置県が発端
現在の都道府県名の土台となったのは、1869年の版籍奉還の後に断行された廃藩置県(1871年)です。
最初の段階では、江戸時代から存続していた藩をそのまま県にしてしまいましたので、3つの府と302もの県が誕生しました。この時は、県名と県庁所在地名とは完全に一致していました。
ただ、さすがにこれだけ多くては行政効率が悪いということで、同じ年に再編成・統廃合が行われ、3府72県となりました。この時に、県名と県庁所在地名とが違うところが出てきたのです。
司馬遼太郎の『街道を行く(3)』では興味深いことが書かれています。
「明治政府が今日の都道府県をつくるとき、どの土地が官軍に属し、どの土地が佐幕もしくは日和見であったかということを後世にわかるように烙印を押した。その藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である。
薩摩藩ー藩都鹿児島が鹿児島県、長州藩ー藩都山口が山口県、土佐藩ー藩都高知が高知県、肥前藩ー藩都佐賀が佐賀県、の4県が代表的なものである。
(中略)これに対し、加賀百万石は日和見だったために金沢が城下であるのに金沢県とならずに、石川という県内の小さな地名を探し出してこれを県名とした。
(中略)官軍の最大の攻撃目標だった会津藩にいたっては、城下の若松に県庁が置かれず、わざわざ福島という僻村のような土地に県庁をもってゆき、その呼称をとって福島県と称せしめられている。」
「なるほど」と納得がいきます。この説は、司馬遼太郎の前に、宮武外骨(みやたけがいこつ)が『府藩県制史』という本で発表したということです。
賊軍は県名と県庁所在地名が違う
そこで、本論の県名と県庁所在地名とが違うという疑問です。宮武・司馬説をあてはめると、一定の結論が導き出せます。
()は県庁所在地
盛岡藩ー岩手県 (盛岡市)
仙台藩-宮城県 (仙台市)
高崎藩ー群馬県 (高崎市)
小田原藩ー神奈川県 (横浜市)
桑名藩ー三重県 (津市)
姫路藩ー兵庫県 (神戸市)
松江藩ー島根県 (松江市)
高松藩ー香川県 (高松市)
松山藩ー愛媛県 (松山市)
県名と県庁所在地名が違う17のうち、上の9つが官軍ではない敵方、つまり幕府側についた藩(賊軍・朝敵)なのです。また、金沢藩は司馬遼太郎が書いているように、日和見だったため、石川県(金沢市)とされたようです。
北海道と沖縄県はご存じのような事情があり、愛知県と茨城県は、徳川家を藩主とする尾張、水戸でしたから別の理由でしょう。また、栃木県と山梨県、滋賀県は小さな藩がたくさんあり、それらが統合されてできていますので、一概にはいえなくなっています。
要は、官軍に抵抗した藩は懲罰として、見せしめとして、有無をいわさず県名がつけられ、県庁所在地と名称が決められたということになります。そして、それを断行したのが、井上毅でした。
以上、『県名と県庁所在地名が違うのは、明治政府による賊軍への懲罰だった。』でした。
(この問題は諸説あり、私が最も納得した司馬・宮武説を中心に書いたことをご理解ください。)